要注意!リノリウムは脚が太くなりますよ

あなたは、
リノリウムの教室でレッスンしていませんか?

 

床材として使われるリノリウムの上で
踊った経験がある人ならご存知だと思いますが、
リノリウムというのは、厚みのあるゴムの様な素材ですから、
その上で踊ると、ふくらはぎが、めちゃくちゃ疲れます。

慣れないと、ふくらはぎがパンパンに張ってしまいます。

慣れてくれば、それなりに平気にはなってくるのですが、

「ふくらはぎがパンパンに張る」

のですから、逆に言うと、

ふくらはぎがパンパンになるよう鍛えることになる。

つまり、

脚がパンパンに張った

太くてたくましい脚になる

ということです。

バレエって、スラっと伸びた細くて強い脚が理想のはずなのに、
これでは、それでなくても欧米人に比べたら短い日本人の脚を
一層、太く鍛えてしまいます。

ですから、理想的なのはやっぱり、
上質な床板を使ったスタジオで訓練するということです。

バレエというのは1回や2回で結果が出るものではありません。

日々の訓練を長期に渡って行うものですから、
日々の蓄積は脚の形にちゃんと、
「積み重ねてきた証」として表れるものです。

脚の形を見れば、
どういうレッスンを受けてきたか、
本格的なスタジオでのレッスンをしているか、
など、わかってしまうくらいなのですから。

しかも、

もし、長年バレエを続けていたのに
結果的にバレリーナにならなかった

とか、

趣味で、健康的に美しくなるためにバレエのレッスンをしている

という場合、

プロのダンサーでもないのに、
太くてたくましいふくらはぎだけが残る
というのはいかがなものかと思います。

確かに、

バレエ・スタジオを経営する上では、
経費は極力抑えたいもの。

ましてやスタジオ建設には、コストの面でも
莫大な資金がかかります。

ですから、どうしても床材は安価なものになりがちです。

リノリウムは、上質な床材に比べたら
比べ物にならないほどに安いですから、
とりあえずスタジオを持とうと思ったら
つい、選んでしまいたくなる素材であることはわかります。

私も実際、
リノリウムのスタジオを考えてみようとしたことはあります。

ですが、これまで全国、リノリウムのスタジオで踊った経験からも、
リノリウムのスタジオだけは持ちたくない
と、一番にその選択を却下しました。

なぜなら、上記のように、脚の負担がひどいということは、
腰や、その他の身体の部位に大きなダメージを与えると
容易に想像できましたし、

しかも、ゴムの上で踊る気分の悪さと言ったらありません。

正直言ってしまうと、
リノリウムのスタジオというのは暗くて、
しかもゴムの臭いの中で踊るというのが、
自分の感性が拒絶したがったという感じなのです。
(あくまで個人の感想ですが)

バレエは、感性が美しくてはじめて美しい踊りを表現できるもの。

それなのに、気分の悪さを我慢してまで
美しく踊ろうなんて思うのが、
それだけで自分を偽る気がしましたし、
無理があるような気さえしたのですから、
どうしても「上質な床材」にはこだわりました。

もちろん、自分の全てをさらけ出すための「鏡」
にもこだわりましたが。

とはいえ、全くレッスンをしないよりは、
リノリウムでもバレエのレッスンをした方がいいという考えも
あるかもしれません。

でも、もし、スタジオを選ぶ余裕があり、
感性を美しく保ちたいというのであれば、

スタジオの環境(素材)

というのは、バレリーナが育つ土台
となりますから、
きちんと吟味して、
リノリウムの弊害も理解した上で選ぶことをお勧めします。

なんでもいいからレッスンすればいい

というのは、少々、粗野な考えでもありますからね。

上質な、プロのバレリーナ達が使うような床材のスタジオであれば、
きっとその他の細かいところまで計算され尽くして
つくられたスタジオ違いありません。

少々間違ったレッスンをしても
脚がパンパンに張って、腰がガチガチになって
身体の老化を早めるということにもならないでしょう。

「上質」とは、このように
見えないところで私たち人間の身体に
そして、センスを司る「感性」などに、
大きな影響を及ぼしているものです。

美しい感性というのは、
素敵なスタジオで、本格的な空気感という環境の中でこそ
養われるものです。

せっかくバレリーナのようにレッスンをするのですから、
気分良く、美しい気持ちになるような環境に身を置き、
その上で、
形の良い、強くてしなやかな身体を得られるよう
磨きをかけて欲しいものです。

 

 


「美しいカラダ」本当の意味とは?

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身体の美しさとは、外見のことばかりではありません。

外見ばかり気にして内側の重要性を忘れてしまうなら、「真の美しさ」など、叶いもしない単なる夢物語です。

なぜなら、

内側をないがしろにして外見ばかり取り繕うことに必死だとしたら、

「真の美しさ」を理解する知性がないことを意味し、

「臭いものには蓋をしておけばよい」

という、なんとも醜い心の現れということになるのですから。

 

その状態こそ、紛れもなくその人の真実。

自分はうまく隠しているつもりかもしれません。

上手に化けたつもりかもしれません。

ですが、

感性を持っている人間というのは、
騙し通せるほど愚かではありません。

人間の「感性」というのは、
その「嘘」を見抜く知性を持っているのです。

ですから、そのことを知らず無知なまま
自分を誤魔化し続けるなら、

「罪悪感」

となって、えも言われぬ不安となり、
自分を襲ってくるのです。

他人は騙せても、自分は騙せない

という言葉通りなのです。

 

そして、
感性の鈍い他人は騙せても、
感性豊かな鋭い他人を騙すことはできず、
むしろ自分の真実を見抜かれてしまうのです。

自分さえ知らない自分の真実を。

 

中から美しく。
中こそ美しく。

 

ですから、「真の美しさ」を望むなら、

外側よりも、もっと優先的に内面を磨いたり、
内側の健康に心を配ったりする必要があるのです。

自分の内側に在るものが、
自ずと外側に滲み出てくるのが
どうしようもない事実なのですから。

 

アレルギーとか、
なんとなくの身体の不調とかでさえ、

「人間なんだから当たり前」ではなく、それは、

己の怠慢と自分自身への無責任さの表れ

と理解すべきです。

 

厳しいかもしれませんが、それが真実であり、
真に美しい人というのは、
その真実を理解しています。

「身体」=「自分」

と捉え、自分の考えや、身体づくりへの取り組み方が
一般常識とは少々異なる上に、

一般常識に侵されていない本質を理解できる知性が、
その人の肉体=「身体から発するエネルギー」となって
その人を輝かせているのです。

 

「どうしてあの人は、いつも元気なのだろう?」

「どうしてあの人は、いつも輝いているのだろう?」

というのは、
れっきとした、それだけの根拠があるからなのです。

 

 

自分自身=身体

に対する

怠慢と無責任。

それを放置する(=今まで通り自己流の古い理解のまま)か、
改善する(=今までとは異なる新しい方法を知る)のかは、
その人自身の価値観によります。

どのような価値観で生きているかもまた、
その人を形成するのですけれど。

 

「40歳を過ぎたら自分の顔に責任を持て」
というリンカーンの有名な言葉がありますが、
これは男性に限らず、全ての人に当てはまるはずです。

 

美しい人というのは、言葉では説明できない
目に見えぬ「何か」が「感じられる」人のこと。

何がどうだと言葉では説明できなくても、

「何か人とは違う」

という魅力などは、

自分自身の内側に責任を持った人が蓄積して来た
全ての積み重ねによって、その人の顔(=雰囲気、オーラ)
を、つくり上げた結果なのです。

それが身体から滲み出てくる「エネルギー」となって
自ずと外に見えているというわけです。

 

きれいに着飾っても、何も感じられなければ、
それを美しいと表現することは難しいでしょう。

 

美しさが「感じられる」時、
私たちには、「美しい」と「見える」のです。

 

それこそが、紛れもなく、その人から溢れ出てしまっている
エネルギー。

エネルギーの質が美しく、
美しいと感じさせるだけのエネルギー量があれば、
その人は美しいエネルギーを発している
ということになります。

 

外側の美しさのために、内側の美しさに責任をもつ。

今は、そしてこれからは、

そんな価値観を持ち、
説明抜きに美しいエネルギーを発する人が
「素敵な人」と称される時代です。

誤魔化し抜きの、
美しい身体、美しい人、美しい生き方を目指して、
内側の磨き方を何よりも優先して学び始めることです。

 

「〜だし」「〜だから」

と言い訳や正当化をしている場合ではないはずですから。

タダで仕入れた安物の情報で
自分自身をつくり上げることに終止符を打つことです。

もし、

本当に理想的な身体=自分自身

をつくる方法を、
我が子に教えてあげられるほどには知らない
というのであれば尚更です。

何も伝えてあげなければ、
あなたの愛する人は、

「あなたの今」と同じような身体の状態をお手本として
知らぬうちに目標としてしまうのですから。